コロナの時代になって、自宅に閉じこもり、人とのつながりが希薄になると、人は情報に飢えてくる。

それに応えるかのように、新聞・雑誌のような従来の受動的なメディアではなく、主体的に検索に行くYoutube、SNS等の新しいメディアから、今までなら考えられないような量のニュースが、我々のところに流れ込んでくるようになった。

新しいメディアからの大量のニュースに、人々が晒されるようになってきたのと時を同じくして、ますます報道内容が先鋭化している。

従来のメディアと対比関係にあり、世間の声を代弁していると言われるソーシャルメディアの過熱ぶりを見ていると「世間は、世の中は、さらに悪い方向に向かっている」「人々は誰しもが金銭欲だけで動いている」「格差は広がっている」「人を信じてはいけない」と、閉じこもりがちな人々に対して、一方的な刷り込みを行おうとしているかのようだ。だが、この刷り込みには、本当にそうか、どうも違うぞと違和感を覚えている。

これでは、世界中、周りは悪い国や強欲な奴らばかりで、押しなべて他人は信用できないとなってしまうが、本当だろうか。

自分の周りに目を転じてみる。私の周りは善良な人たちばかりで(退屈かもしれないが)ニュースで報じられるような悪い人に会うことなぞ、めったにないのが現実だ。

例外的な事例をセンセーショナルに報道しなければカネにならないし、これまで気にもしなかった遠く離れたところのニュースでも、目立って、かつ悪いニュースは特に取り上げられている。その報道はすべて性悪説の塊で、我々はそれに煽られているとしか言いようがない状況だ。

自分とは関係のない社会での、例外的な動きだとわかっていても、こんな情報ばかりに接してしまうと、自分の判断が、知らず知らずのうちにドンドン性悪説に傾いてしまうのが本当に怖い。

特に若い人たちは、スマホからの情報にしか関心を示さず、人と接して情報をとることが苦手と来ているから、世の中全体が性悪説で動いていると感じやすく、人を信ぜず人の好意にも必ず裏があると思ってしまう。

これはアイロニーだが、実はいい人ばかりの人間社会なのに、他人は性悪者だと思い込んでいる人間社会では、人はどんどん孤立化し、連帯感をなくしていくことになる。

翻っていえば、情報が一瞬で共有化され、拡散する世の中で、とにかく悪い情報を流せば人が信じる世の中になってきたことで、過去になく、人の心を操るのが簡単な時代になった。

人と人とを結ぶメディアが発達すればするほど、もはやグローバル時代には時代遅れと思われていた、独裁者・独裁国家・独善的な政治指導層が、民主主義を圧迫し始めているのは、新しい性悪説――本当はいい人ばかりなのに他人は悪い奴と信じてしまう――に染まったこの社会の裏返しと、この頃思うようになってきた。

この流れを変えるのは難しい。